日和佐御陣屋

別名-  付近住所 徳島県海部郡美波町奥河内字本村18-1 現在 美波町役場
2009/3/28 碑・案内板アリ


 阿波藩は、地方行政の役所として明和6年(1769)郡奉行と代官の名を改め郡代と唱え、国内を六区とした。
那賀・海部が一区となり、三人の郡代はそこに常駐したが、時々管轄地を巡見するのが通例であった。
 寛政11年(1799)海部郡鞆浦に、海部郡代所が新築されて新御陣屋と呼ばれた。海部郡は徳島より遠く、交通不便で異国船の警備や、国境に近い重要地などの関係で設置されたものと思われる。
 更に文化4年(1807)御陣屋は日和佐のこの地に普請をして移転された。この日和佐御陣屋が最後の郡代役所となった。以来明治初年に至る約60年間、郡代役所の機能を十分に生かし、上は藩庁の指揮に随順し、また管轄6箇町・木頭4箇村の協力を得て、多事多難であった行政に有終の美を発揮したのである。今日も尚、遺跡は町役場、日和佐小学校として行政と文教の歴史を織りなしている。
 いま、御陣屋の遺構として残っているのは、北西隅の土塀の一部と、遺物としては、ここにある蜂須賀氏の卍紋のついた瓦と的石である。
 この役場庁舎の玄関横にある的石は、御陣屋の西北隅の射場に南面して立っていた矢見立岩である。日和佐小学校改築の際に移転してから、三度の移転を経て、平成9年現在地に設置したものである。
地上部は、高さ1.8メートル、巾2.0メートル、厚さが0.5メートルで、岩質は堆積岩(礫石)で、日和佐町の宝木橋付近に産する珍しい石で出来ている。矢見立岩の名のとおり、この岩陰で、的を射とめたかどうか藩邸するのに使用したものである。